昭和40年04月06日  朝の御理解



  例えば籾が水の中で芽を切る一切に発芽する。ね、芽が出たからといってそのままでいわば良いというのではないそれが大地にまかれる。大地に根を下すいわば苗床に青々としてた苗が出来るそれが今度は田植えという事になり、様々な私はお百姓の事はよく知りませんけれども、肥料を施したり田の草を取ったり秋の実りというまでにはそれこそ、88回の手がいると言れてあの米という文字は88という事になるそうですね。
 水の中で芽が出たからといので、そのままほっておったんじゃ腐ってしまうでしょうし、枯れてしまうでしょ。次に大地に根をおろすといういわば泥との対決というでしょ。泥に取り組んでというでしょうか。そういう信心がまずなされなければならない。私は本当の信心によっておかげを受けるという事は、そういう一つの過程というのが必ず必要だと。また神様はそれを求めたもうと私思うですね。
 お取り次ぎを頂いてお願いして、おかげを頂いたと。おかげを頂くと。けれども、それは私は本当のおかげじゃないと思う。本当のおかげというのは、私はそういう様にしてちょっと米一升買ってこんねというごたるおかげ、ちょっと米一升買ってこんねというようなおかげならいざしらずですけれどもね。あげん言うてきとるけん、一升貸しておきなさいというて借ってきたその米をおかげ頂いたという様な事程度のおかげでは私本当のおかげじゃないと思う。
 昨夜も青年部会に昨日はたくさん集まっておられました。そして結局お話は、御造営の事でございまして、御造営、御造営とそんな雰囲気がある。所が御造営、御造営だと信心するのが先だというなふうに気持ちが変わってこられたような感じがする。信心の造営がまず第一だと、ところが信心の造営、信心の造営というけれども、その時にはやっぱりなんとわなしになんちゅうですがね、信心の造営信心の造営なんかしらんけれど信心の造営御建築といった。
 もうすぐ、御献納金の事が頭に響くらしい皆さん。それでいわば・・・・?するような人達がもう出て来る。だから、これじゃいかんというので、今度は信心の造営、信心の造営という事になる。それでも信心の造営、やっぱり、信心して一生懸命おかげ頂いてやっぱりご、献納中心に勧誘する様な感じがあるらしい。私信心の造営とは、そんなもんじゃないと思いますねえ。
 先日最終的な検討が加えられて、いよいよこの線で進もうと言う線がでて、いくらいくらの本当に、今の椛目の者が聞いたら、やっぱり、びっくりするだろうと言う様な、金額が計上されて、そのお届けがあった。そしたら、みんなが睦合うていけば、おかげと頂きました。いうなら皆んなが睦合うて、和をもってその事を実らせて頂くという、信心になったらおかげという事。
 皆んながその気になって、例えば一家中の者がです。主人一人じゃない。家内一人じゃない。一家の者がその事を祈らしてもらう。その一家中が睦合うてその事を祈らしてもらう。その家庭の者が集まって椛目的なあの椛目全体が、その事を睦おうていうなら。昨日おとといでしたか。総代会いうて繁雄さん一人じゃった見えたのは。途中から高芝さんが、ああ今日は総代会でしたねえというて、しばらくおられたことでした。
 これでは話にならないなあ、と私感じたんです。勿論なんか日にちが変更になっとったから皆んなが、うかつにして忘れておったのが、事実らしいですけれどもね。私、皆さんがいわばその事をです、一つの思いを家族中の者が祈れれる信心。それが集まってから全体がその事を願われる信心。一同の者がむつみおうていけばおかげと。そこにです。私は、そのことが一生懸命願われる時に皆さんの願いが祈らんでもおかげになると言う様なおかげこそ本当のおかげである、私思うです。
 その事が祈られるという事。、例えば私今度御本部大祭がここから55名ですかねえ。56名でしょうか。そのたとえば56名の方達がです。せっかくを御本部参拝するのでございますから、その御本部参拝がその事を中心にしてです、勢信心のおかげを頂いて祈らせて頂こうという様な私は雰囲気が生まれてこなければいけないと私思うです。そういう祈り、それが私はいわば発芽の状態になった所じゃないかと。
 もみが水の中に一切に芽を出す。そのことを祈らしてもらう。そのことのために修行をさしてもらう、というときに私は大地に撒かれたということになるんじゃないかと思う。その事に対して例えば勝つまでは欲しがりません、欲しがりません勝つまでは、ですか。戦時中に流行った言葉なのです。御造営がすすむまでは、その事に焦点をおいて一同の者がその気になる。
 その気の心を頂かしてもらってそれを祈らしてもらい、その事の為に修行させてもらう。そういうことが私は、信心の造営であり、その事が信心の稽古だと私思うんです。そうなってまいりますと例えば御造営いやご造営というのに信心の造営という所まではです。何か知らんけれどもこう献納金に感応したものが皆さん感じはしませんか。けどもその事が切実に一人一人の上にです、その事が祈られる。
 その事の為に修行させてもらう、芽が出る、そして大地に根をおろす。そして出す?除草【・・・? 】秋のとりいれと。このように様々な手数を踏んでそこに初めて実りの成就ということになる訳でございますけれども、いうならそこの所にいわゆるいうなら日頃の信心にものいわせて勢信心を確かなものにしていかなければならんと。夕べ青年部会がおわってから、後は50名から残っておられまして後からです。
 今日の御大祭の事は何にも話がでておりませんでした。もう御大祭のことをなめってしもうとるち。御造営、御造営で、ね、大祭のことは一言も言わなかった。というほどに御造営のことを皆さん考えておられるけれどもです、さしせまっておる春の御大祭のことも大事。それか御造営、御造営というものだから何かこう献納金に還納して考える。こりゃまあ、あんまり椛目に通いよるとガラリするごとお供えどん言われるなら、・・?誰が何万ちゅごつあるような気持ちも手伝って。
 もし信心が動揺するといったような事であったらです、そのことの為に御大祭の事も動揺をきたしたらです、いくらあいすいませんということになると私思う。だからこれは御造営、そしてまず信心の造営信心の造営というのではなくてです。それはまずみんなが心をそろえてそのこと祈れる。そのことの為に修行させてもらえる。信心になっ。だからこれが御造営、そしていやまず信心の造営、信心の造営というのでなくてです、私はまず皆んなが心を揃えて、そのことが祈れれる。
 そのことのために修行さしてもらえれるという、という信心になったときに皆さんの上に現れてくるおかげ、それが本当のおかげであると。そのおかげの喜びをです。いわゆる御造営ということにです。又は、御大祭ということにもっていくおかげを頂かなければならんとおもうのです。皆さんどうでも一つ、中にはあれが右といよるけんで、自分な左の方にしかという様な対立にする感じる場合があるのですね。この頃のことでも、これではではですね、私、本当のことが成就することは、絶対ないと思う。
 いわゆる一部の人達が一生懸命になっても一部の人が反対のことを思って、あれどんがしよっと・・・?秋永先生が言っておられました。あそこに日割り日程が書いてあるが、どてもこげなふうになるもんかい、とみんなが思うちとる様ではおかげにはならんと。どうでもこの様にです。おかげを頂く。頂けれるんだと。昨日の朝の御理解がです。先生が祈っておいて下さる。先生を信じ信者を信じ、信じ信じあう所からです。
 私たちの思いもかけないあいよかけよの本当の働きが始まって、嬉しいやら悲しいやらどうしてこのようなことができたであろうかというような教祖の神様の御伝記を拝承するところのそういう事をもって、御自分の61年間を振り返ってから記録を残されるなかにです、に書き綴られているそういう感激をもらしておられる。そこに天地の親神様の金光大神一人の喜びではなし。神の喜びである。ということも仰っておられる。
 どうしてこのようなことができた。天地の親神様ですら知られなかった。教祖の神様はなおさらなこと。どうしてこのようなことができたであろうかと。教祖の神様、天地の神様が感激仕合いなさるようなです、な椛目の場合も真実そこに信心がです、先生を信じ、そして皆さんを信じ信じられる私信心がです。まずさせて頂いて初めてです。どうしてこのようなというようなおかげが頂けてくるとこう思うのです。
 そのためには皆さん私を信じて下さい。これは昨夜の御理解です。私を信じて下さい。お父さんお母さん信じなさい。お母さん俺を信じよという前にです。相手を自分自身が本当に何でも信じられる私になることに精進しなければならんと。自分が信じられる為に一生懸命信心の稽古させてもらうならです、必ず自分の周囲、だれかれを信じれるようになれるだろうという御理解だった。
 本当に人が信じられるということは幸せである。いわば信じられる事のためにです、自分自身がまず神様に信じられる私になることにつとめさせて頂けば、たくさんの人が信じられるようになる。自分の心の中にどれくらい生まれてくる自分の周囲全部の人が仏様になるということなんです。まず自分だと。御造営御造営の掛け声も本当に有難い。それはまあ一部の人達。
 そのこともある意味で本当に一生懸命ですから祈らなければいられない訳なんです。さあまずひかえてる大祭のことも忘れてみんなが共励しおうってまあ。共励って、話し合っておられるということ。有難いそれは、けれどもいうなら水の中につけられたものが発芽したと。芽が出たというだけの事であろうと。それでもみんなが見上げているというのじゃない。それは、大地に芽をおろす信心。
 大地との対決。物との取り組み。そこから私は、本当の根強い信心。本当にお互いが信じ信じられる信心というのがそういうところから頂けてくるようになると。私は思うのです。そういうような話し合いがあるなら、というても・・・・・・・・?その一生懸命やりよるけんで、まあどうかなろうとしてもできゃせんというようなものじゃなくてです。本当に世の中に出るのは、まだ早い。と思うなら、真剣にその反対をいう人たちがあってこそおかげだと私思うんです。反対も言わん。
 それがその中でできるはずがないじゃないかってと言う人もいない。一方では、いいや神様【 ・?】そのくらいな私熱意が欲しい。降参もしない。反対もしない。ただ自分自身の教えにひざっておると、こういうようなことでは、本当に日ごろの信心は、どこにいったかわからない。これは、本人自身もおかげをおとすに違いない。間違いなしにおかげを落とすに違いない。とそれでは椛目のお徳を落とすことになるのですから、私みなさんにいうならばです。
 打って一丸になってしかもむつみあってです、一つの和をもってです。【 】信心の御造営という前にまずです、その家族の者がむつみおうてお広間全体の者が、むつみおうてそのことを祈りおうて、の信心。そこのために修行させて頂けれるという信心。そういうようなことをまず頂かなければならない。というふうに、昨夜から感じさせて頂いておるのでございますけれども。・・・?皆さん精信心のご協力を頂かなければならん、なさなければならんとこう思うのです。
   おかげを頂きました。